題名

お俊(おしゅん)

本名題

其噂桜色時(そのうわささくらのいろとき)

詞章

声曲文芸研究会『声曲文芸叢書』第3編 清元集(明治42年)

(資料の題名『其噂桜色時』)
(資料目次に括弧書きで「おしゅん伝兵衛」とある)

『雨の降る夜は一入床し〔合〕冴えては月に猶床し
『おしゆんは一人湯帰りに、浴衣を一寸〔合〕抱え帯〔合〕もみぢぶくろに映ろひて、しがらみならぬ橫櫛に、つい髱あげの平元結、顏にかゝれば〔合〕仇名草〔合〕夜は嵐の花川戸、馴にしくゞり〔合〕押明て、内にゐるさの物案じ
『昨日伝兵衛さんの言はしやんした事を思へば、関破*1と言ふは此のしゆんが大事の/\お主様、何処にどうしておゐでなさるゝ事ぢやゝら、其のお主様の御難儀を我が身に換えてお救ひ申したい故、アノ伝兵衛さんに、モ心に思はぬ愛想づかし、嘸腹が立つたで御座んせう、堪忍して下さんせへイヤ/\此の様な事言ふて、ひよつと人に聞えては一大事、ドリヤ身じまひをして仕舞はうか
『昨日より今日は思の十寸鏡〔合〕曇るとならば花の空〔合〕上野の鐘か浅草か〔合〕無情を告ぐる風の綾
『うき名が中に伝兵衛は、おしゆんが心疑ひて、忍ぶ姿の頬冠、佇む軒は目覚えの、確に此処ぞと門の戸を〔合〕叩くうちにも心急き
『此処あけて貰ひませう、あけて貰はうぞ
『さう言ふ声は伝兵衛さんかいな
『オヽ伝兵衛ぢや
『こつちへ御座んせ、お前はマア何為に御座んしたへ
『何為に来たとはおしゆん、此の伝兵衛はお主が心を聞に来たのぢや、昨日秋葉であのやうな愛想づかし、どうも合点がゆかぬわい、どう言ふことぢやそれが聞度い
『もし私が心聞度くば、伝兵衛さんお前の心から先へ言ふたがよいわいな
『ソリヤ何を
『伝兵衛さんお前はほんにアノ園生の前様とやらを尋出して、お首をうたしやんす心で御座んすかへ
『オヽソリヤ知れた事ぢや、アノ駿州清見が関を越えたる園生の前は関破の科人、今宵中に尋ね出し首討つて出さねば、此の伝兵衛が身の上の願が叶はぬ、ぢやに由つて草を分ても詮議するのぢや
『それさへ聞けば何にも聞く事は御座んせぬ、サアサア早う帰つて下さんせ
『コレおしゆん今思い出したやうに、帰れ戻れとはエヽ聞えた、昨日秋葉の素振といひわりや心変だな
『アイ知れたこといな
『エヽおのれはな/\
『かはる心に伝兵衛は、急立つ胸を〔合〕押鎮め、思ひ直してもたれ寄り、女子心は疑ひの、深い中にも猶深い、二人が中に水さして〔合〕たとへのかしてあるとても、言替したを反古にして、そなたは添ぬ心かと、無理に引寄せうら問へば
『伝兵衛さん切て下さんせ
『何がどうした
『サアいつまで言ふて居やうより、お前に愛想が尽きたと言ふ証拠は、お前の紋のついた私がアノ小袖、お前の見る前ですん/゛\に引裂いてしまふ程に、心の残らぬやうに夫れから見て居やしやんせと
『押入の戸を引開くれば、以前忍びし園生の前、顔見合せて吃驚し、ヤアあなたはと言ひ様戸棚の戸を引立て、ほんに私としたことが、未練らしう小袖を引裂うの何のと言ふこともないかいな、伝兵衛さん、たつた今切文書て貰ひませう
『なんだ何うした
『サア今の戸棚の小袖の替りに、私が身を切文、サア私へ切文書て下さんせ
『ハテ心ありげな言葉の端、今のは確染模様、小袖替りの切文を
『早う書て下さんせ
『そんなら切文今書くぞよ
『アノ仰山な顔はいな
『世の中を何にたとへん飛鳥川〔合〕昨日の淵は今日の瀬と〔合〕変り易さよ人心〔合〕
『硯引寄せ伝兵衛は、墨さへ薄き縁ぞと〔合〕思ひ諦め書く文の、まゐらせ候も跡や先、傍におしゆんは見ぬ振も〔合〕風につれなき露の蝶、今は此の身に愛想もこそも、月夜の空や鳥鐘を、恨みしことも仇枕
『それ望の切文書いたぞ請取れ
『これで心がさつぱりとしたわいな、
『おしゆんもう此の世では逢はぬぞよ
『更て砧の音さへゆかし
『おしゆんは跡を見送り/\
『伝兵衛さん
『変る心のつれなさを〔合〕嘸や恨みて腑甲斐ない〔合〕女子心と思はんしよが、言ふに言はれぬ見の願〔合〕愛想づかしの有じやうも〔合〕胸に涙を押入の、傍へそろ/\立寄つて
『お前様のお行衛を、方方とお尋ね申しましたに、ようこそお出下さりました、園生の前様
『人丸
『申しお声が高い壁に耳
『人や聞くとも白藤が、暖簾の内より
『おしゆんぼう
『エヽ
『ハテきつい肝のつぶしやうの、イヤ肝がつぶれるといへば、アヽよく見れば見る程美しいもの、此の愛嬌で伝兵衛殿と色事だもの、有難いはへ/\
『白藤さん矢張お前は邪慳かへ
『ナニサたとへ邪慳でなければとて、誰もかまひてはねへのさ
『其の様に言はしやんすな、かまひてがあるまい物でも御座んせぬぞへ、申し白藤さんアノ昨日秋葉で一寸言つたこと、何うして下さんすへ
『コレサ/\そんなことを言つて、おれを困らせることはねへはな、お前はアノ伝兵衛殿と、二世までもといふ中ぢやごんせぬか
『サ其の伝兵衛さんと切てしまふたわいな
『ナニ切てふたとは
『切てしまふたと言ふ確な証拠は此の切文、これ見て下さんせ
『成程こりや切文、そんならとうに切たのかへ
『どうしてマア嘘に切文が取られるもので御座んすぞいなア
『是でよめた、アノ伝兵衛殿と縁を切ても、アノ押入の内の命が助け度とのことか
『エヽサア夫れは
『ハテ変つた色事でごんすの、伝兵衛殿になりかはり戸棚の内を
『コレ待たしやんせ
『ナゼとめる
『オヽ憎く
『ソリヤ誰が
『白藤さんが
『憎いとは
『私やお前に
『何がどうした
『待つて居たわいなア
『松になりたや有馬の松に〔合〕寐て見て訳も白藤に、這ひまつはるヽ〔合〕嬉しさは、菜種の花も山吹も、言はぬ色なる仕為ぶり
『それと人目に関取は、おしゆんを突退けきる物を、抱えながらに立ち上り行かんとするを
『引すえて
『見て見ぬ振の背と背〔合〕男の髮を簪で、かき撫ながら声曇り〔合〕そりや〔合〕素気ないぞへ白藤さん源太さん〔合〕いかに関取さんぢやてゝ、力ばかりか〔合〕心まで其の様に強い〔合〕物かいな〔合〕
『ほんに角力の噂にも、手取/\と聞馴て、思ひ初めたる其の日より
『きにくせ付て忘られず、心のたけを打あけて、言て島田のもつれ髮〔合〕取上げられぬ仇惚に、女子の道がたつものか、憎からうともわたり合ひ、なげの情と一夜さの〔合〕枕かはして下さんせ〔合〕やいの/\と顔かくす〔合〕深き思ひは小野川に、濡れて恋増す風情なり
『夫れ程までに此の白藤を、思ふて呉れる志忝ない、そなたの願叶へてやらう
『そんなら寐て下さんすか
『イヽヤそりやならぬ
『シテ又何の願をへ
『伝兵衛殿の切文、そなたを切文叶へてやらう
『エヽ嬉しう御座んす
『目と目のうちに心解け、義理と忠義を身ひとつに〔合〕思ひ患ふ二筋の、道に迷ひし命ぞと、言ふもいぢらし去にても〔合〕
『女に稀な忠義者
『オヽ嬉し
『心の闇に言葉さへ、残る櫛笥の玉章の内に思や籠るらん、内に思ぞ籠るらん。

分類番号

00-1331211-a5s2y3n0-0001
データ入力日:2016/05/17

清元 お俊 歌詞


*1 底本「開破」とあるのを「せきやぶり」の読みに従い「関破」に改めた。